袴田巌さんには一人息子がいることをご存じでしょうか?
1966年の事件によって冤罪で逮捕され、長い拘禁生活を強いられた袴田さん。
しかし、その陰には家族との悲しい別れと複雑な人間関係が存在しました。
この記事では、袴田巌さんの息子がどのような現在を送っているのか、妻であった女性はどのような人物だったのか、家族構成やそれぞれの関係性について、時系列に沿って詳しくまとめていきます。
果たして、袴田巌さんと息子との関係はどのように変化してきたのでしょうか?
また、袴田さんの妻との関係や、家族の行方は?
巌さんの経歴は?
これらの疑問に答えながら、時系列に沿ってその家族のドラマをひも解いていきましょう。
袴田巌の息子の現在は?
袴田巌さんには一人息子がいますが、1966年の事件をきっかけに生き別れとなり、58年間会うことがありませんでした。
袴田巌さんの息子は1964年に誕生しているので2024年時点では 61歳 になります。
AIで巌さんの若い頃の画像を元に息子さんをイメージさせ生成した画像がこちらです。
事件後、息子は叔母である袴田ひで子さんの家に一時身を寄せましたが、その後、親族の意向で児童養護施設に預けられたそうです。
息子は「事件の影響を受けず、新たな人生を歩んでほしい」という家族の思いから、施設へあずけたそうです。
秀子さんら親族は、袴田さんの息子を児童養護施設に預けることにした。「事件から離れて、別の人生を歩んでほしい」との思いからだった。
袴田さんも受け入れ、秀子さんに「(施設の)先生によろしく」とメッセージを託したという。
袴田巌さんは息子のことをさぞ心配していたのでしょう。
獄中から息子に宛てた手紙も公開されています。
息子よ、どうか直ぐ清く勇気ある人間に育つように。
すべて恐れることはない、そして、お前の友だちからお前のお父さんはどうしているのだと聞かれたら、こう答えるが良い。
僕の父は不当な鉄鎖と対決しているのだ。古く野蛮な思惑を押し通そうとする、この時代を象徴する古ぼけた鉄鎖と対決しながら、たくさんの悪魔が死んでいった、その場所で(正義の偉大さを具現しながら)不当の鉄鎖を打ち砕く時まで闘うのだ。
息子よ、お前が正しい事に力を注ぎ、苦労の多く冷たい社会を反面教師として生きていれば、遠くない将来にきっとチャンは、懐かしいお前の所に健康な姿で帰っていくであろう。
そして必ず証明してあげよう。お前のチャンは決して人を殺していないし、一番それをよく知っているのが警察であって、一番申し訳なく思っているのが裁判官であることを。
チャンはこの鉄鎖を断ち切ってお前のいる所に帰っていくよ。
1983(昭和58)年2月の日記から
過去の報道等を調べましたが2024年現時点では袴田さんと息子の関係はどうなっているのか分かりませんが過去の時系列を詳しく見ていきましょう。
時系列
以下は、袴田巌さんの息子に関する時系列をまとめた表です。
年代 | 出来事 |
---|---|
1963年 | 袴田巌さんと妻の間に長男が誕生。家族で清水市にて暮らす。 |
1966年6月 | 静岡県清水市において「こがね味噌」工場の専務一家4人殺害事件が発生。袴田巌さんが逮捕される。家族は分裂状態に。 |
1968年 | 袴田巌さんが妻と離婚。息子は叔母である袴田ひで子さんに預けられ、その後児童養護施設に入る。 |
1980年 | 袴田巌さんに死刑判決が確定。息子は施設での生活を続けており、父との面会はなし。 |
2014年 | 静岡地裁で再審が認められ、袴田巌さんが釈放される。息子とは依然として連絡が取られていない状態。 |
2024年 | 袴田巌さんに無罪判決が下る。息子に対する思いを語り、ぬいぐるみを準備するも、実際に再会は叶わなかった。 |
この表を通して、袴田巌さんの息子がどのような経緯をたどりながら過ごしてきたのかが分かります。
事件によって生き別れとなり、長年父親と会うことがなかったことが、息子にとってどれほど大きな影響を与えたかが伝わります。
時系列としては分かりませんが以下の報道があり、事件前から息子さんは巌さんの両親のもとで預けられていたのではないかと推測できます。
バーテンダーなどをした後、バー「暖流」の経営に乗り出したがうまくゆかず、店を畳んでから「こがね味噌」に住み込みで勤めていた。
無口で働き者の巖さんを藤雄さんは可愛がった。巖さんは早くに結婚し、一男をもうけたが、妻は男を作って去り、2歳の息子は巖さんの両親のもとで育てられていた。
事件が発生した週末も旧清水市(現・静岡市清水区)から浜松市まで(車で約2時間ほど)実家に預けた息子に会うために帰っています。
事件のあった週末も巖さんは、実家に預けている幼い息子に会うため、浜北市(現・浜松市浜北区)を訪れ、ひで子さんも実家に戻った。
袴田巌の妻は誰?
袴田巌さんは1963年に結婚しています。
結婚相手はプロボクサー時代に知り合ったホステスの女性で、彼女との間に一人息子が誕生しました。
しかし、事件が発生した1966年に家庭の平穏は失われてしまいます。
上記の引用文でも説明しましたが事件後なのか前なのか定かではありませんが、妻は息子を残し、どこかへ去ってしまったそうです。
妻のその後についてはほとんど情報がなく、消息は不明です。
袴田巌の家族構成や経歴の時系列まとめ
上記の画像が袴田家の画像であり、赤枠が巌さんです。
袴田巌さんの両親に関する情報は限られていますが、わかっていることを以下にまとめます。
父親:庄一さん
袴田巌さんの父親である庄一さんは、50代で「中風(ちゅうぶ)」(脳卒中の後遺症)を発症し、寝たきりの状態となっていました。
事件が起こった当時も、口をきけない状態であったとされています。
母親:ともさん
袴田巌さんの母親は「ともさん」という名前で、事件当時は家族を支える立場にありました。
息子である巌さんが逮捕される中、母として彼を心配し、事件に巻き込まれないことを願っていました。
両親は巌さんが獄中にいる間に他界されたそうです。
判決の2カ月後、母は亡くなった。さらに5カ月後には父も。その死を知らされなかった巌は、手紙を送り続けた。
返事がないことには違和感を覚えていたのかもしれない。44年10月には母宛てに、こんな手紙を送っている。
《今朝方、お母さんの夢を見ました。元気でした。夢のように元気でおられたらうれしいのですが》
2年後、両親の死を悟った巌は、兄に手紙で《裁判が私の両親の生命を奪った》と憤り、死に水を取れなかったことを悔やんだ。
事件により家族はバラバラとなり、両親も息子の拘束という過酷な状況を目の当たりにして苦しい生活を余儀なくされました。
特に母親のともさんは、長い間袴田さんの冤罪の解決を願い続けたと考えられます。
袴田家の兄弟の情報は秀子さん以外は分かりませんでした。
経歴の時系列
以下は、袴田巌さんの経歴を時系列に沿ってまとめた表です。
年代 | 出来事 |
---|---|
1936年(昭和11年) | 静岡県浜名郡雄踏町で生まれる。6人兄妹の末っ子。 |
1942年(昭和17年) | 雄踏国民小学校に入学。 |
1948年(昭和23年) | 赤佐村立赤佐中学校に入学。 |
1951年(昭和26年) | 赤佐中学校卒業後、浜北市の織物工場で工員として働き始める。 |
1954年(昭和29年) | 浜松市の自動車修理工場で工員として働く。 |
1955年(昭和30年) | 浜松市内のボディビルディング協会でボクシングを始める。 |
1957年(昭和32年) | 静岡国体でバンタム級の代表選手として出場し、団体戦で3位を獲得。 |
1958年(昭和33年) | プロボクサーを目指して上京。不二拳闘クラブに入門する。 |
1959年(昭和34年) | プロデビューを果たす。 |
1960年(昭和35年) | 「チャンピオンスカウト」フェザー級で優勝。年間19試合を戦う。 |
1961年(昭和36年) | フィリピン・マニラに遠征し、日本フェザー級6位にランクイン。 |
1962年(昭和37年) | 体調を崩してボクシングを引退。不二拳闘クラブを辞め、清水市でバーテンとして働き始める。 |
1963年(昭和38年) | 清水市でバーを開業し、プロボクサー時代に知り合った女性と結婚。 |
1964年(昭和39年) | 長男が誕生する。 |
1965年(昭和40年) | 味噌製造会社「こがね味噌」で工員として働く。 |
1966年(昭和41年) | 静岡県清水市で強盗殺人放火事件が発生し、逮捕される。 |
1968年(昭和43年) | 離婚。家族と離れ、長期拘禁生活に入る。 |
1980年(昭和55年) | 死刑が確定。 |
1984年(昭和59年) | カトリックの洗礼を受ける。 |
2009年(平成21年) | 成年後見制度の「保佐」が決定され、姉のひで子さんが保佐人となる。 |
2011年(平成23年) | 「世界で最も長く収監されている死刑囚」としてギネス世界記録に認定される。 |
2014年(平成26年) | 静岡地裁が再審開始を決定し、釈放される。 |
2023年(令和5年) | 再審が開始され、無罪を求めて審理が進行する。 |
2024年(令和6年) | 静岡地裁で無罪判決が言い渡される。 |
この表を通じて、袴田巌さんの人生の軌跡と、ボクシングから冤罪による長期拘禁、そして再審と無罪判決に至るまでの経過を時系列で把握できます。
家族の現在の関係性
現在、袴田巌さんは姉のひで子さん(91歳)とともに生まれ故郷の浜松市で暮らしています。
2014年に袴田巌さんが釈放された後、ひで子さんは巌さんと共に浜松市内のマンションで生活を共にしています。
息子との再会は果たせていないものの、息子に対する思いは強く、再会を待ち望んでいるのかもしれません。
巌さんは長い拘禁生活の影響で精神的なダメージを受けており、ひで子さんは彼の生活の世話をしながら、弟の安定した生活を支え続けています。
まとめ
今回の記事では、袴田巌さんの家族関係について詳しく見てきました。
事件により大きな犠牲を強いられた家族関係ですが、袴田巌さんは息子に対する思いを最後まで持ち続けていました。
息子は袴田さんから離れた環境で育ち、事件の影響を避けながら生活していますが、二人の間に続く絆は断ち切れないものがありました。
冤罪による拘禁生活の中で家族との関係がどのように変化していったのか、その背景には日本の司法制度の問題や家族の苦悩が深く影響していることが分かります。
袴田巌さんと家族の今後に、少しでも多くの幸せが訪れることを願います。
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